SNSについて①
SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)は危ないところ。
皆さんは果たしてこれを自覚しながら利用しているのだろうか。
SNS上に、記事を投稿し、そこに「いいね」などの反応があり、褒められるようなコメントがつくと、嬉しくなる。
そして、更に反応が欲しくなり、注目度を高めるために、他の人の記事にコメントをつけるなどして積極的に交流を図り、新たに投稿する互いの記事には、義理的にコメントを付け合う「ともだち」となる。
その過程は実に楽しく、有意義なものに出会ったという満足感に浸る。
あたかも真の友情でも芽生えたような錯覚を得て、精神の支柱のようなところまで重きを置いてしまう。
そして、交流人数を増やすことでの快感が止まらず、一日の大半の時間を費やしていく。
これが、よく言われるSNS中毒である。
ハンドルネームでの付き合いは現実社会と切り離されたところがあるため、心を裸にすることもでき、日常生活の中なら口にできない本音も言える。
それが支持を得たりすると、自分の人格をそっくり受け入れてもらえたように勘違いして、のめり込んでいく。
「自分の居場所」を得たような気がして、失いたくない大事な場所となり、依存していくことになる。
危険なのは、そこからである。
もし、SNSでそういう快感を得るのならば、そこは、似たような人が集まっているところであるといっていい。
何が危険かというと、似たような状況に置かれている似たような人たちでの集団が出来上がっていくからだ。
やがて、その集団が意思を持つようになり、保守的になっていく。
すると、少しでも調和を乱す者がいれば、排除にかかるという性質を持つサイレント・マジョリティの誕生となる。
人間社会では、多種多様の考え、嗜好があり、その中で切磋琢磨され、影響を受けながら成長していく。だが、そんな荒波の中で生きていくのは困難を極め、そんな中、帰属意識を持たされると安心感に肩を力を抜き、安住の地を得たようになる。
サイレント・マジョリティに属していることでの満足感が全てを肯定していき、調和を乱す者の排除を、罪の意識もなく、容赦なく行使できるようになる。
しかし、それは、どう言いつくろっても、実質は集団イジメなのである。
その加害者になっている自覚がない。これが危険なのである。
排除された者も、排除した者も、そのSNSの中毒者であるから、どちらも執着していて、そこで生きることが重要なことであり、排除される者はもがき苦しみ、自殺まで試みているという相談を受けていることから、ともすれば、それは、残酷な殺人行為であるかもしれないのだ。
だから、SNSを生活の大部分に当てている人は、SNS上で、自分が排他的な行為をしてしまっていないかどうかを、一度、行為を客観視し、気をつけなければならない。
そして、中毒症状の緩和も試みる必要がある。
大事なものは、ネット上ではなく、血が通うところにある。